本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

江戸川乱歩全集第4巻 孤島の鬼

江戸川乱歩全集第4巻 孤島の鬼』(江戸川乱歩) <光文社文庫>
読了です。

「孤島の鬼」と「猟奇の果」が収録されています。

「孤島の鬼」は、最初はロマンチックな感じの密室殺人事件でしたが、だんだん様相を変えてきます。
しかし、「闇に蠢く」のような冗長と破綻を感じさせるものではなく、どこを読んでもおもしろい作品でした。
江戸川乱歩にしては珍しく、「ある程度筋ができていた」ためでしょうか。

特に“雑記帳”は秀逸です。
これだけで一つの作品になりそうです。

「猟奇の果」は、前半は(ある程度トリックは想像できるものの)とてもおもしろく読めていたのですが、後半からもうむちゃくちゃです。

乱歩自身が
----------
物語を前後篇に分ち、……一変しているのは、雑誌の販売政策上、編輯者の注文に応じなければならなかったからです。
----------
と書いているので、乱歩も後半を不満に思っていたのかと思っていたのですが、前半の収集がつかなくなって編輯者(横溝正史)に相談したところ、後半のような筋書きを提案され、ほっと一安心した、というのが本当のようです。
でも、当時はこの後半が良かったようで……。

前半からそのまま筋を変えない、もう一つの結末も載せられており、私はそちらのほうが好ましく読めたのですが、いかがでしょうか。

ファウスト

ファウスト』[全二冊](ゲーテ)<新潮文庫>
読了です。


※内容に触れますので、嫌な方は読まないでください。

思いの外すらすらと読めました。
第一部は波乱万丈・お祭り騒ぎが盛大で、とにかく読んでいて楽しいです。
学生をからかったり、魔女の厨の異空間を経験したり、恋をしたり、魔女たちの祭りに参加したり。

しかし、第一部が終わる間際のグレートヒェンの悲劇には胸が痛みます。
もちろん、それまでにも悲劇の匂いはしているのですが、もう現実を見ることができず、狂気の中で暮らしているグレートヒェンの描写には、本当に気が滅入る思いましました。

第二部に入って、気を取り直したファウスト一行が皇帝をからかう場面はまた楽しい。
「母の国」の描写がなく、すぐ戻ってきたのは残念でしたが、いろんな刺激を受けることができました。

ギリシアに移ってからは、正直あまり興味が惹かれなくなりました。
ここで読むスピードもぐっと落ちてしまいました……。
美女の描写は難しいですね。

そして再び皇帝出現。
あの享楽から一転して、国が内乱状態にあるという事実がわかり、やっぱりここでも気が滅入ります。
ファウスト一行の魔力で皇帝側が勝つものの、皇帝の感じた気味悪さや戦勝後の重臣への過重な約束など、未来の暗さが暗示されているようにも思います。

戦勝の褒美としてファウストが最後に臨んだものの崇高さは素晴らしいのですが、しかしその崇高さも悪魔メフィストーフェレスとの契約の中で成し遂げられているがために、いつも暗さを含んでいます。
結局、ファウストの人生は、メフィストーフェレスと契約してからは暗くなる一方だったのではないでしょうか。

ファウストの最後の救いは、ちょっとアッケラカンとし過ぎだという印象です。
なかなか神の救いを劇的に書くのは難しいと思いますが、これまでのストーリーの最後としては物足りない思いがします。


タイトルは「ファウスト」ですが、ファウストマクガフィン的な扱いで、やはり全体的にはメフィストーフェレスの物語のような気がします。
そういう意味では、ラストもメフィストーフェレスで終わらせてみたかったですね。

名作を簡単に読めるよう、要約した本なんかが少し前に流行りましたが、このような作品を読むと、要約なんかで「名作」のことが分かるはずはない、と思います。
一言一言の表現の面白さ、景色の重厚な描写、登場人物の軽さや重さ、雰囲気の明るさ暗さなんかが要約で分かりますでしょうか。
むしろ、そういうところを楽しむための読書なんじゃないか、と思います。

最後、蛇足ですが。
酒場でからかわれている大学生について、訳注で「新入生」とか「年配の学生」とか書かれていました。
これって、どこで分かるんでしょう?
ファウスト伝説では有名な登場人物なのかな?

今年の総括

今年の総括と、「手元に残した本」「年越し本」です。

今年はとにかく、『ジャン・クリストフ』を読んだのがとても大きかったです。
「結局、読書なんて趣味だから」とこれまで思っていましたが、趣味でない読書、というものが存在することを知りました。
この読書は私の人生にとって非常に大きな経験でした。

初めて読んだ作家は宮下奈都だけです。
非常に興味深い作品でした。
私の気持ちが強すぎたのかもしれませんが、読む人によって応え方が全く異なる作品だと思いました。
つまり、そのような作品が書ける作家、ということです。
また好きな作家が一人増えそうです。

堀江敏幸柴崎友香は二作目の読書です。
どちらも初めて読んだ時の印象がそのまま二作目でも感じられ、やはり私の眼は正しかった、と思いました。

道尾秀介は力はあると思いましたが、トリッキーな内容になってしまったのが残念です。
もう一冊積読してあるので、それは読みます。
また、最近はミステリでない作品も書かれているとのことなので、もう少し追いかけるかもしれません。

■ 手元に残した本
# 全集系、趣味系は除きます。
ジャン・クリストフ』[全四冊](ロラン・ローラン)<岩波文庫>
ユリシーズ演義』(川口喬一) <研究者出版>
『去年の冬、きみと別れ』(中村文則) <幻冬舎文庫>
1Q84』[全六冊](村上春樹) <新潮文庫>
『雪沼とその周辺』(堀江敏幸) <新潮文庫>
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹) <文春文庫>
日蝕・一月物語』(平野啓一郎) <新潮文庫>
『よろこびの歌』(宮下奈都) <実業之日本社文庫>
『春の庭』(柴崎友香) <文春文庫>

■ 年越し本
今年の年越し本には
ファウスト』[全二冊](ゲーテ/高橋義孝訳) <新潮文庫>
を選びました。
東西を選ばず、たくさんの作品に影響を及ぼした作品ですので、早めに読みたいと思っていました。
「どんな言葉もすでにゲーテが言っている」とたとえられるゲーテが、何をどのように表現しているのか、という興味もありました。

年越し本は時間をかけて読もうと思い、いつも「ちょっと難しいかな」と思う作品を選んでいるのですが、思った以上におもしろく読みやすく、すでに一冊目の半分ぐらい読んでしまいました。
年越しまでもつかな。

『春の庭』(柴崎友香) <文春文庫> 読了です。

現れてくる一文をじっくり味わいたくなる。
しかし、どれだけ味わっても味がなくなることはなく、キリがないので渋々次の一文に移る。
そして、次の一文もまたじっくり味わいたくなる。

そんな、一文一文が積み重なってできた作品です。

何か特別なことが起こるわけでもなく、感動に胸を震わせられるわけでもなく、淡々と日常が描かれているだけの作品です。
「最後の一ページで世界が変わる!」とか「涙で読み進めることができませでした」とか「見事な伏線の回収」とかが好きな方には全くつまらない作品でしょう。
だれもが楽しめるわけではありません。読む人を選ぶ作品、作家なんだと思います。

今存命の作家で、五十年後百年後も作品が残っている作家ってどれくらいいるでしょうか。
でも、間違いなく柴崎友香はその中のひとりだと確信しています。

文庫化にあたり、「糸」「見えない」「出かける準備」が併録されました。
まだ単行本しか読まれていない方は、ぜひ文庫のほうも。

堀江敏幸の解説も興味深いです。
正直、私は理解できない部分がありました。
私には見えていないものが堀江敏幸には見えているんだと思います。
時間があればじっくり考えてみたいです。


※ 以下、内容に触れます。気になる方は読まないでください。

一人称で語られているにも関わらず、一人称が「わたし」等ではなく「太郎」であることにずっと違和感がありました。
しかし、物語の終わりごろに突然出てくる太郎の姉が「わたし」と語り出します。
そして、「わたし」の視点と「太郎」の視点が混交し、「わたし」が知らないはずの物語が再び語られ始めます。

果たしてこのような操作が必要だったのか、疑問に思いましたが、興味深くはあります。
そして、その混濁した一人称が心地よくも感じます。

ただ、併録作品でも一人称を「わたし」以外にしているものがありますので、「太郎」を使ったのは作者にとって特別に意味があるわけでもないのかもしれません。

森鴎外全集3

森鴎外全集3』(森鴎外)<ちくま文庫> 読了です。

最近ますます読むのが遅くなり、読むのに一か月近くかかりました。
それでも、一文一文を噛み締めて読むよろこび、作者がどう思ってこの一文を書いたのかを自分なりに辿るよろこびが分かってきたような感じがして、ますます読書を楽しく思えるようになりました。

因習の蒙昧に悩む穂積家と科学的に簡潔に対峙してしまう己とのズレを描いた「蛇」、父の診療所を手伝う医学生の体験を描いた「カズイスチカ」など、興味深い作品は多いですが、特に印象深いのは「妄想」です。

海辺に老後を過ごす「主人」の、己の人生を振り返った作品です。
留学から帰国した自分が如何にあるべきかを煩悶し、様々な学問を辿った末に至った境地が次のように描かれています。
----------
自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。
帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行こうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかったのである。
----------
もちろん、これを書いた当時の森鴎外の心境を描いたものでしょう。
これを読んで、私は自身の立っている場所を振り返り、大いに反省を促され、かつ励まされたような気持がしました。

さらに「主人」の暮らしをこのように描いています。
まさに、読書人の理想ではないでしょうか。
----------
昔別荘の真似事に立てた、膝を容れるばかりの小家には、仏者の百一物のようになんの道具もただ一つしか無い。
それに主人の翁は壁という壁を皆棚にして、棚という棚を皆書物にしている。
<中略>
世間の人が懐かしくなった故人を訪うように、古い本を読む。世間の人が市に出て、新しい人を見るように新しい本を読む。
倦めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の波瀾を見る。
----------

完成すれば大傑作になったであろう「灰燼」は未完成に終わりました。
父と息子の微妙な心のバランスを描くかと思われた五条秀麿シリーズは哲学談義に紛れていきました。

そんな、私からみるとちょっと残念に思われる作品も多いですが、「羽鳥千尋」のような今後大きく発展していくであろうことが楽しみな人物描写の作品にも取り組んでいて、次巻以降、ワクワクしながら読んでみたいと思っています。

 

【収録作品】

カズイスチカ
妄想
藤鞆絵
流行
心中
百物語
灰燼
不思議な鏡
かのように
鼠坂
吃逆
藤棚
羽鳥千尋
田楽豆腐

『よろこびの歌』(宮下奈都) <実業之日本社文庫> 読了です。

久しぶりに胸を高ぶらせながら読める作品に出会いました。
読み終わって、ちょっと興奮しています。

一時間ほどかけてこの感想を書いていますが、この作品の内容を思い出しながら、指と胸が震えています。

最近読んだ現代作家の中では、堀江敏幸柴崎友香が特別に良かったですが、ここに宮下奈都も加えることになりそうです。

宮下奈都は『羊と鋼の森』の評判を聞いて「匂い」がしていました。
この作品を読んで、私の鼻もなかなか利いてるな、と思いました。 :-)

★ 以下、ネタバラシを含むので、気になる方は読まないでください。


正直なところ、第三章まではごくありふれた退屈な作品だと思っていました。
「どうせ私なんか」と思っている女子高生。
ちょっとした出来事を契機に、そんな中で気づきとよろこびを見つけ出していく。
まあ、そんな作品かな、と読みながら思っていました。

しかし、第四章になって急にスイッチが切り替わります。
霊と話ができる牧野史香が主人公となり、いままで表現されていた「等身大の女子高生の日常」から、全く異なる世界が姿を現わします。
そして、牧野史香が「光の道を歩く少女」を幻視したことから、それ以降、御木元玲に対して急に神格化されたような表現がなされていきます。
第五章では光り輝く彼女を絵に描こうとするところで終わりますし、第六章では彼女から名前を呼ばれたことで喜びに打たれています。

人間御木元玲から神格化された御木元玲への昇華が見事に描かれており、彼女を中心とした場にいる「よろこび」が読み手にもヒシヒシと伝わってきました。

そして、最終章は再び御木元玲の視点に戻ります。
前章までに神格化された御木元玲の、一人の女子高生としての独白。
彼女から見た「みんな」と「場」はどのような存在なのか。
そこから彼女はどのように変化していったのか。
人間として描かれている御木元玲が、彼女の心の中とその変化を自ら表わすことで、かえって「みんな」からの神格化が決して的外れでも大げさでもなく、神格化にふさわしい存在であることを示しています。
そして、第二章、第三章で御木元玲を人間として対応していた原千夏、中溝早紀も、御木元玲のために歌をささげることを表明します。
最後は、全員が御木元玲を見つめ、御木元玲の右手が挙げられることを、息をひそめ、目を輝かせて待っているところで終わります。

ここまで見事な表現をされて、読み手の心が震えないことがありますでしょうか。
こんなに響いてきた作品は本当に久しぶりですし、読んでよかったと本当に思いました。


ここからは少し技術的なところです。

一つの出来事をいろんな視点から描く手法は確かにありますが、この作品ではその出来事への重みが登場人物それぞれで異なっています。
「出来事」は「その日」に至るための単なる通過点であり、絶対的な出来事というような陳腐な描かれ方がなされていないことに好感が持てました。

また、描かれている日付が章毎に少しずつ進んでいきます。
個々人が考えていること、感じていること、見えていることを通して、「その日」に向かっていく様子がとてもリアルで面白く感じました。

そして、御木元玲で始まり、御木元玲で終わったこと。
読みながら、「御木元玲は第一章で良かったんだろうか。最終章で『実は彼女は』のようなネタバラシ的な構成にしても良かったんじゃないだろうか」と思っていたのですが、最初と最後に同じ人物を持ってくる、という発想は私にはありませんでした。
見事だと思います。

あと、いくつか謎が残されていることも楽しいです。

読み進めていくにつれ、頻繁に登場する人のニックネームはやがてフルネームと対応していきますが、なぜか「あやちゃん」だけはずっとフルネームが登場しません。
登場しないのは第三章だけにも関わらず。
そして何よりも、御木元玲と中学からの同級生にも関わらず。

「ボーズ」はほぼすべての章に登場しますが、なぜか第四章と第六章だけは登場しません。

各章は御木元玲にとって重要な人物の視点で描かれていますが、第五章の里中佳子だけはそれほど重要人物ではありません。
それにも関わらず、この章にはこの作品の肝ともいうべき重要な表現がいくつもあります。


★ 最後、「解説」へのネガティブな意見になります。気になる方は読まないでください。


しかし、解説の薄っぺらさはどうでしょうか。

自分と折り合いをつけていく様子が描かれている。うん、確かに描かれていますが、読み取れるのはそれだけなんですか?

ほほえましいかわいらしさ、愛らしさ。うん? 御木元玲への表現が、そんな言葉だけで済まされるんですか?

合唱というアイテムを与えられただけで先へ進んでいける少女たち。え? 合唱は単なる手段であって、彼女たちは御木元玲の存在に感化されたのでは? そもそも、最初は合唱で失敗してましたよね?

少女期特有の屈託とそこからの解放を形にしたと思いました。はあ、読み取れたのはそれだけですか。

さらに言えば、最初に書かれている洗濯籠の喩えについて、「彼女のプライドが見えている」と言っていますが、違うでしょ。
彼女はあの体験で、変わったんでしょ。
うーん、どう読めばそんな風に読み取れるのか……。

読んではいけない解説、というものはこれまでもいくつかありましたが、この解説もそんな解説の一つでした。

デミアン』(ヘッセ/高橋健二訳) <新潮文庫> 読了です。

確か最初は高校生のとき、家にあった世界文学全集のようなもので読んだのだと思います。
とても感激し、その後大学に入っても(今度はこの文庫で)読み、変わらない感激を覚えました。

それからずいぶん経ち、「もう一度読んでみよう」と古い文庫を発掘して読んでみました。

やはりそのころとは読書への態度が変わっているためか、今度は残念ながら感激することはありませんでした。
もっと日常生活の中での出来事だったような記憶だったのですが……。

解説にもあるように、ヘッセ自身が非常に困難な時期に書かれたもので、精神分析家との交流もあり、このような作品ができたようです。
小説というよりは、ヘッセが自己を追求した記録として、資料的観点から読むと面白いかもしれません。

特に、ユング心理学との親和性がいいように思います。
この辺りが好きな方にはおすすめです。

今回は面白く読めなかったとはいえ、ここに書かれているこんな手法は試してみたいです。

◆ 絵を描いてみる。
◆ 目的を定めず、街をうろついてみる。
◆ 夢を気にしてみる。

また、こんな教訓もあるように思いました。

◆ 今いる場所がゴールと思うな。
◆ 今いる場所が袋小路だと思うな。
◆ 眼の前にいる人がいつまでも先生だと思うな。

あまり面白くなくても、こういう得るものがあるのがヘッセのすごいところです。

デミアン (新潮文庫)
ヘッセ
新潮社