本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

江戸川乱歩全集 第6巻』(江戸川乱歩) 読了です。

明智小五郎探偵ものの長編二編が収録されています。

解説にも書かれている通り「謎解き」が問われている時代ではなく、冒険活劇と舞台のおどろおどろしさを楽しむ作品なんだろうな、と思います。

「魔術師」のネタはツッコミどころも満載ですが、そういう意味では正しい「探偵小説」なのでしょう。

そして、それでも「吸血鬼」はなかなか楽しめる作品でした。
両国の捕物シーンはただただバタバタしているだけですが、それ以外は雰囲気もあって現代でも十分読める作品ではないでしょうか。

ところで、P548に、犯人からの脅迫状を「三度目ですよ」と明智小五郎が言うシーンがありますが、四度目ではないでしょうか。
当然ファンの間では気づいているとは思いますが、註釈もなかったので、どう解釈すればいいかわかりませんでした。

<一度目>
P368
三谷が明智に依頼したとき

<二度目>
P392
アトリエ捜索のとき

<三度目>
P483
恒川と明智が事件を話し合っていたとき

<四度目>
P548
墓地を捜索していたとき


【収録】

魔術師
吸血鬼

落下する夕方

落下する夕方』(江國香織) <角川文庫> 読了です。

江國香織の作品を読むと、薄っすらとこわさを感じるのは私だけでしょうか。
世界の薄暗い面を見てしまっている気持ちがします。

物語を語っていく主人公が、(私から見ると)世界のセカンドサイドの住民ですから。
もう、冒頭から薄いおかしさがどんどん出てきます。
そして、作品をよりこわいものにしているのは、世界のメインサイドの住民がところどころで顔を出すからです。
リアリティがあるんですよね。

久しぶりに江國作品を読んだので、しばらく読み進めてから「ああ、そうだ、こんな感じだった」と後悔してしまったのですが、ほかにはないこの感覚がだんだんクセになってくるんですよね。
読み終わった今、薄っすらとしたこわさは残っていますし、読んだことの後悔もあるのですが、それでも手放せません。
今年の「手元に残した本リスト」にきっと載ることでしょう。

最初の江國作品は『きらきらひかる』でした。
これは手放してしまったのですが、多分、また手に入れます。
江國香織の毒に犯されている感覚です)

ところで、この『落下する夕方』には、作中に語られていない物語が隠されています。
二箇所、その姿を現していますが、物語られていないので、まったく意味がわかりません。
そこにどんな物語があったのか……。
そういう謎が残されるところもこわいところなのです。

森鴎外全集5

森鴎外全集5』(森鴎外) <ちくま文庫> 読了です。

「堺事件」は前巻の「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」からの流れを汲み、事件の生々しさが伝わって読んでいて辛いものがあります。
特に切腹のシーンは、フランス公使のみならず、現代の読者にとっても吐き気を催すような気味の悪さがありました。

山椒大夫」「最後の一句」は子どもの頃にも読んだことがありますが、人生経験を経て改めて読んでみると、また違った感想を持つことができました。
というか、当時は全くおもしろくなかったのですが、今読むと深い味わいがあります。
一方で「高瀬舟」はテーマが明らかすぎて、今でも少し物足りないものを感じます。

「安井夫人」「じいさんばあさん」「寒山拾得」は実に爽快。
読んでいて気持ちが朗らかになってきます。

「魚玄機」はエロティックかつミステリアスで、江戸川乱歩が好きそうなテーマです。

こうしてみると、いろんなタイプの作品をそれぞれ高い完成度で書いているんだなあと思わせられます。
実録に題材を採って自身の興味に沿った作品に仕上げるところは、澁澤龍彦を彷彿とさせるところもあります。

作者が公に顔を出さず、作中人物や描写によってその気持を伝えているところも非常に好感が持てます。
そういったベースがあるので、「安井夫人」の死に望んで急に作者が意見を述べる箇所は、作者の気持ちを押さえることができなかったという心情が察せられ、特に意味あるものに思われました。

最近読んだものと比べれば、やはり長らく読まれているだけあって、文章にリズムがあり、言葉の難しさを物ともしない心地よさがあります。
こういう文章を読みたいものです。

<収録>

大塩平八郎
堺事件
安井夫人
山椒大夫
魚玄機
じいさんばあさん
最後の一句
高瀬舟
寒山拾得
玉篋両浦嶼
日蓮聖人辻説法
仮面

幸福論

『幸福論』(アラン / 神谷幹夫訳) <岩波文庫> 再読です。

記録を見返すと、2012年11月に初めて読んだ作品でした。

前回はとにかく新しい考え方のオンパレードで、心を震わせながら読むことができました。
今回は、前回よく理解できなかったところも自分なりに考えていくことを目標に読んでみました。
去年の初夏のころから少し困難な時期が続き、再読を思い立った次第です。

おそらく原文の雰囲気を保つためだろうと思うのですが、岩波文庫版は訳がこなれていない印象がありますし、理解が難しいところも多々あります。
もし、単に「幸福論というものを読んでみたい」というだけでしたら、いろんな出版社から訳本が出ているようですので、自分にあったものを選ばれるといいと思います。

とにかく、一読に値する作品だと思います。

いわゆる「世界三大幸福論」(アラン、ヒルティ、ラッセル)の中では私はアランのものが一番好きで、ストンと心に落ちてきます。

異邦人

『異邦人』(カミュ/窪田啓作訳) <新潮文庫> 読了です。

私が高校生のときに読書感想文の課題だった作品です。
その時以来の再読です。

今読んでみると、訳が本当に難しい。
当時も何が起こっているのかがなかなかわからない、というところが逆に楽しかった覚えがあります。
あれから読書経験を積んだ今でも、丹念に読まないと何がどうなっているのか見失いそうです。

ムルソーが自分の感覚を大切にしている、ということは理解できます。
しかし、事件を起こすまでの成り行き任せ、決断放棄と比べて、判決が下った後の自省の細やかさには驚かされました。
それでもあの出来事を反省する訳ではなく、自分の今置かれている状況、これからシステマティックに起こる出来事、を自分の中で処理しようとする冷静さ。
この大きな乖離が、一人の人間に起こっていることとして違和感がないところにカミュの凄さがあるのかな、と思いました。

ムルソーに「もう一つの生活」が可能だったのか、可能だったとしたらどのようなことが起こり、どのような感覚を持ったのか、とても興味があります。

カミュの作品も、またこれからも読んでみたいと思いました。

きりこについて

『きりこについて』(西加奈子)<角川文庫> 読了です。


※ネタバレを含むので気になる方は読まないでください

■ 表現
少し北杜夫のユーモアに似ているかな、と思いました。
独特の表現で、とてもおもしろいと思います。

■ 内容
不自然とも思える急な展開ですが、そこまでに至る内容やそこからの内容が本当に必要だったのか、少し疑問に思いました。
そもそも、前半のきりこから、中盤はともかく後半のきりこには結びつき難いです。
前半のきりこは優しかったのか? 単に自己中な人物としか読めませんでした。
また、「『中身』『容れ物』『歴史』を含めて自分である」という結論に到着しますが、「歴史」の軸は必要でしょうか。
それは「中身」に反映されるべきではないでしょうか。
「中身」に反映されない「歴史」は、無かったも同然だと思います。
それに、「容れ物」まで自分が自分として引き受けるのはどうでしょう。
あくまでそれは社会に向けた「物」であって、それを社会がどう判断するかは社会に任せておいていいのではないか、と思います。
そしてさらに言えば、社会の判断は社会の判断として、受け止めるなり受け流すなりは自分で判断する、と。
「容れ物」を受け入れるくだりはかなり駆け足ですし、「歴史」については何も言っていないも同然なので、この作品からこの結論に至るのはちょっと乱暴かな、と思います。

■ 構成
一番悩ましいのは構成です。
そもそも「猫と会話できる」の最初のエピソードが、猫の視点ときりこの視点との食い違いがあるように思えて、単に猫が一方的に「理解してもらっている」と思い込んでいるのだと読んでいました。
でも、その後はいつのまにか会話できてるんですよね。
その後も猫の会話は人間には理解し難い表現(特にきりこの夢を解釈するシーン)で、私は「猫の世界は猫の世界、人間の世界は人間の世界」ということを言いたいのかな、と思っていました。
しかし、最後で明かされる、この作品の作者の正体!
作品中の猫の表現から、この作品の正体が猫とはまったく思えませんし、ただただ違和感しかありません。


辛口な感想になりましたが、作者の独特な表現力は魅力的だと思いました。
もう少し彼女の作品は読んでみたいと思っています。

葬送

『葬送』[全四冊](平野啓一郎)<新潮文庫> 読了です。

ショパンドラクロワという、ジャンルの異なる二人の天才芸術家の生き方を中心に、芸術論、政治情勢、民族紛争、歴史、旅行記、地理、恋愛、社交界、等等、とにかく濃密な記述に満ちた作品です。
一文一文が非常に凝った表現に満ちており、じっくり読めば面白いのだろうと思いますが、何分全四冊という長編なので、私は途中で「じっくり読む」ことを諦めてしまいました。

私は音楽の知識はあまりなく、一方で美術館にはちょくちょく足を運ぶので、繊細で甘えん坊に見えるショパンにはあまり心を寄せられず、力強く自分の足で歩いているドラクロワのほうにばかり興味がありました。

完成した下院図書館の天井画を、ひとつひとつドラクロワ自身が鑑賞するシーン(第一部下巻 P349~P364)は圧巻で、これだけ取り出して売られていても買いたいぐらいの感動的なものでした。
一方で、ショパンの演奏会のシーン(第二部上巻 P57~P104)は驚くほど退屈!
場所も近いので、作者にはこれを対比させる意図があったのではないかと思います。
音楽にも絵画にも理解のある読者なら面白く読めたかもしれませんが、私には手にあまりました。


※ここから少しネタバレが入るので、嫌な方は読まないでください。

ショパンの死に際し、親友ドラクロワがその場に立ち会わなかったのは実に意味深いことだと思います。
立ち会えなかったのではなく、立ち会わなかった。
なぜ立ち会わなかったのかを自問自答するドラクロワですが、もちろん答えは見つかりません。
小説はそこから「死」のもたらす意味に向かっていきますが、私はショパンドラクロワという二つの天才のあり方にあったのではないか、と、漠然と感じました。
この長編小説が、ドラクロワの次の大作に向かうところで終わることも、とても象徴的だと思います。

葬送〈第1部(上)〉 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社
葬送〈第1部(下)〉 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社
葬送〈第2部(上)〉 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社
葬送〈第2部(下)〉 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社