本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

ラピスラズリ

ラピスラズリ』(山尾悠子)<ちくま文庫> 読了。

研ぎ澄まされた言葉の数々。
寡作だとは聞いていたが、一つ一つの言葉をこれほど磨き上げているのであれば、寡作であるのは無理からぬ事だろう。

冒頭は次の一文から始まる。
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「画題(タイトル)をお知りになりたくはありませんか」
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いきなりこのような会話文(問いかけ)から始める作家はいくらでもいるので、最初の八行は飛ばしてしまおう。
その次のパラグラフは次のような文章から始まる。
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そもそも深夜営業の画廊などに入っていった理由さえ思い出せないのだったが、たぶん理由などなかったのだろう。列車の到着を待つ時間潰しの所在なさも手伝ってか、声をかけられるまでわたしはじぶんでも気づかないままずいぶんと時間をかけて一枚ずつを眺めていたようだった。
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たったこれだけの文章だが、ずいぶんたくさんの情報が含まれている。
○ 深夜に営業しているという特殊な画廊が存在する街にいる。
○ 「理由さえ思い出せない」くらいなのだから、語り手は普段から画廊に出入りするような人物だろう。
○ 時制から過去の出来事を思い出しながら語っている。
○ 深夜に列車を待つのだから、かなり遠くへ、それも急な出立だったのだろう。
○ 一枚ずつを時間をかけて眺めていながら「ようだった」とまるで他人事のように語られている。
丁寧に調べていけば、まだまだ情報が含まれているかもしれない。
たったの二文にこれだけの情報を詰め込んでいるのだから、一冊を読み上げるまでどれほど神経をすり減らされるのかまるで想像できない。
一つ一つをしっかりと理解しながら読まないと今自分がどこにいるのかをすぐ見失ってしまうのは宮下奈都の比でははい。
そして言葉を選ぶその神経の細やかさは、先に現れる「なかなかよく考えた巧妙なやりかただ」といった普通ならなんでもない言葉が、陳腐で不用意なつまらない言葉に感じてしまうくらいだ。

また、これらの謎を含んだ情報が読み進める中で明らかになっていくと思ってはいけない。
読めば読むほど混沌の度を増して、深夜営業の画廊の夢の中に取り込まれていくような思いをする。

言葉だけではない。
この作品を構成する「銅版」「閑日」「竈の秋」「トビアス」「青金石」という五つの中短編がどのようにつながっているのかがよくわからない。
各編がつながっていることは共通して現れる物事や事象から明らかなのだが、具体的にどういうことだったのかはついに明らかにされることはない。

先に「深夜営業の画廊の夢」と書いたが、全体が山尾悠子の夢の中にいるような印象を受ける。
理詰めで理解する作品ではなく、詩のように読者がそれぞれに感じ取る作品なのだろうと思う。

言葉を磨き上げる技工の跡がありありと見えてしまうのがやや残念ではあるが、魅力的な作家であることは間違いない。
これからもこの作家の作品は読んでいこうと思う。

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