本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

荘子 第一冊(内篇)

荘子 第一冊(内篇)』(金谷治訳注)<岩波文庫> 読了。

荘子は大学時代に出会ってその魅力に取りつかれ、幾度となく読んできた。
しかし、実際にその考え方を取り入れるとなると難しい。
難しいというより、どうやっても現実の生活とは相容れないように思われる。
生兵法は怪我のもととはよく言ったもので、むしろ荘子は私を傷つけてきたようにさえ感じられる。

この二年ばかりの間非常に困難な時期があり、自分なりにいろいろ考えて実行してきた。
そんな中でも読みはしなかったものの荘子の思想は常に頭にあり、自分なりにこの時期の生き方の指針の一つともしてきた。
今ようやくその時期を越え、改めて荘子を読み返して、大学からの読み方とどう変わってきただろうか、今の自分にはどう読めるだろうか、と思った次第である。

当時は重要視していなかったが、訳者による前段の解説がありがたい。
荘子とは要は「それをそのままに受け取る」という思想なのだ。
まずそれを得心してから読むと、非常に理解しやすいように思える。

「逍遥遊篇」は、物事を自分の小さな物差しではかり、わかったような気になっているのを厳しく戒めている。
「斉物論編」は、どんな物差しを持ってきたところで、世の中をはかりきれないことを示している。
自分の物差しを捨て、それをそのままに受け取ることで、無用と思われたものも用いることができ、天籟を聞くことができ、庖丁の超技を身につけることもできるのだ。

そう思うと、「人間世篇」の櫟社の話は受けがたい。
無用に務める、と言っている。
もし自身が無用なら、無用であることそのままであればそれでいいのだが、務めるのは荘子の思想に反するのではないだろうか。
ところどころそのような受けがたい話も見られるが、それは私の荘子への浅い理解からかもしれない。
またいろいろ経験した先に、再びどう読めるかを試す機会があるかもしれない。

まずは内篇を読了したが、引き続き外篇、雑篇を読んでいく予定。
荘子自身の思想から離れているとも聞くので、受けられるところは受け、受けられないところは考えながら読んでみたい。

私の軽々しい理解を表して失礼しました。
そうではない、というところがあれば、ご教授いただけると幸いです。