本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

荘子 第二冊(外篇)

荘子 第二冊(外篇)』読了。

内篇は、自分の小さな物差しを捨てて「それをそのままに見る」ことが主に書かれていると読んだ。
その中で、儒者のいう仁義のようなものは「それをそのままに見ていない、ことさらなこと」として戒めていた。
そのような表現は、あくまで荘子の考え方を説明するための一つの手段であると思う。

しかし外篇になると、手段であったものが話題の中心になり、徹底的に仁義を攻撃する。
そうかと思うと一転して、仁義のあり方が自然なのでそれに従うべきだ、などと言ったりする。

さらには「自然のままに任せておいて、何もしない」ことを「無為」と言って、「無為であることですべてがうまくいく」とまで言ってしまう。
内篇では「それをそのままに見て、ことさらなことをしない」あるいは「自然、運命に無理に逆らわない」ことを「無為」と表現していたと思うのだが。
それに、うまくいく、という考え方がすでに自分の小さな物差しをあてていることになるのではないか?

荘子の元来の思想であろう内篇の内容からは、はなはだ離れてしまっている感がある。
むしろ、内篇で学んだことが自分の中でぶれていないか、という観点で読むべきなのかもしれない。

それでも、深くうなずける箇所も少なからずあった。
自身の備忘のためにもいくつか挙げておく。
特に最後に挙げた「魚の楽しみ」は、内篇の庖丁の逸話を彷彿とさせ、感動的ですらある。
以前、セミナーの講師が「私の先生だったコンサルタントは、顧客のオフィスに行くだけで話を聞く前にもう課題をピタリと当てた。『なぜ分かるのですか』と聞くと『こうして眺めると分かるのだ』と答えた」という話をしていたことを思い出す。

----------
【天地篇 六】堯と封人の問答
封人が堯に「寿、富、男子多き」という世俗的な祝福を願い出て、堯は「それを受けると徳を養うことができない」として拒否する。
封人は「それらを受けてもそれぞれに対応すれば何ら問題ないはずだ」とし、「あなたを聖人と思っていたが、せいぜいのところ君子だ」と言って堯を退ける。

【天地篇 九】孔子老子の問答
人の力ではどうにもならない動止、死生、廃起を人の力でコントロールしようとすることを諌め、物をも自然をも忘れた「忘己」を勧める。

【天地篇 十一】子貢と丈人(老人)の問答
苦労して水を汲む丈人に、子貢は楽に水を汲むことができる仕組みを教える。
丈人は「その仕組みは知っているが、ことさらなことをしないのが師から学んだことだ」と子貢を退ける。
子貢は恥じ入るが、その話を聞いた孔子は子貢に次のように話す。
「その丈人は一面だけしか学んでいない。内面はそのようでありながらも、外面は世俗に立ち交じって楽しむものだ」

【天道篇 十】桓公と輪扁の問答
古代の聖人の書物をありがたく読んでいる桓公に対し、言葉にして伝えられないことがあると輪扁が諭す。

【天運篇 四】顔淵と師金の問答
古代の聖人のやり方をそのまま今に活かそうとする孔子について、時代や人によってそれぞれにやり方があるのだと師金が避難する。

【秋水篇 七】荘子と恵子の問答
ゆうゆうと泳ぐ魚を見て、荘子は「これこそ魚の楽しみだ」と言う。
「あなたは魚ではないのにどうしてそれがわかるのか」と問いかける恵子に対し、荘子は次のように答える。
「あなたも私ではないのに『魚ではないのだからわからない』と知っているだろう。私もここから魚を見て、魚の楽しみがわかるのだ」
----------