本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

荘子 第三冊(外篇、雑篇)

荘子 第三冊』(金谷治訳注)<岩波文庫> 読了。

第二冊から引き続き外篇の五篇と、雑篇の三篇が収録されている。

もちろん意図したわけではなく、単に順番に適切な量を収録しているだけだろうが、第二冊と比べると比較的荘子の思想をそのまま述べたものが多いように感じられた。
逆に言えば、今まで見てきたものがまた出てきたような印象も受ける。
(ひとつ、自分の外部の事物に心を取られてしまう、という話が目立つのが特徴といえばいえるかもしれない)

そういう意味であえてここから取り出さなければならないものも少なく、また、訴えるものが感じられてもその章全体として見ると受け取り難いものもあった。

そんな中から、印象の強かった章を挙げてみたいと思う。

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【田子方篇 四】孔子老子の会話
孔子老子に会いに行くと、枯木のような様子で立っていた。
老子孔子に「とても言い表すことはできないが、試しに話してみよう」と、その境地を語る。

「遊」という荘子の思想を表した章。
内篇にはよく出てくるが、外篇や雑篇ではあまり見かけない話で、新鮮な感じがする。

【知北遊篇 一】知と黄帝の問答
道について「答える」ということすら知らなかった無為謂、答えようとしてそれを忘れてしまった狂屈、答えた黄帝のいずれが道を知っていたことになるのか。

再三「言葉で言い表せない」と言われているが、書物という特性上、やはりどうしても言葉でしか伝えることができない。
読んでいるとそういうことを忘れてしまうが、大事なのは言葉ではなく「それ」であることを思い出させてくれる。

【徐無鬼篇 十一】子棊の子どもへの予言
子棊の子どもの一人が「一国の王とおなじ料理を食べて一生を終える」と予言され、子棊は悲しむ。
王と同じ待遇を受けるという予言なのにと訝しく思われるが、このような奇怪な予言は運命だろうと答える。
果たして、その子どもは誘拐されて足を切られて売り飛ばされ、肉屋の親方の元で王と同じように肉を食って一生を終えた。

好ましいように思える前兆も結果どうなるかはわからない。
それを運命と受け取るしかない。

【則陽篇 八】霊公という諡の所以
孔子の「なぜ霊公は霊公という諡を受けたのか」との問いかけに、三人がぞれぞれに答える。
一般世間に通じる答えを出すことはできるが、なぜ「そう」なのかは誰にもわからない。

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