本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

荘子 第三冊(雑篇)

荘子 第四冊』(金谷治訳注)<岩波文庫> 読了。

今年のゴールデンウィークから読み始めた荘子も、ようやく読了となった。
二年前の春以降、いろんなことが起こり、いろんなことを考えて試してきて、ある程度「これでいけるかもしれない」と思えるようになった。
そんな今、私の人生の中で良くも悪くも心の拠り所であった荘子を読むとどんなことを感じられるだろう、という思いから読み始めたものだ。
結果的に、今読んで良かったと思った。
私の今の立ち位置の支えと思えただけでなく、ぼんやり思っていたことを明らかにしてもらったり、新たな気づきを与えてくれたりしたように思う。
また、中に含まれる危険な意見にも気づくことができた。もちろん、私の成長や考えが足りないだけかもしれないが。

今後の人生を通して、荘子は私の拠り所となるのだろうと思う。

第四冊は外篇の八篇を収録している。
第三巻に引き続いて数は少ないが、いつものように「これは」と思う章を挙げたい。

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【外物篇 八】荘子、遊を語る
荘子は言う。
遊ぶことができる人は、どんな境遇にいても遊べる。
古い考えに固執する人は、世俗を批判的に見てしまうものだ。
世俗に立ち交じって遊び、人に従順でありながらも自分を失わず、特定の考えに固執しないし対立もしない、という立場が理想なのだ。

【外物篇 十二】世間の価値観に従う愚かさ
親に死なれ喪中の礼を守ってすっかり痩せ衰えた男が称賛され、その後街にはそれを真似て親に死なれて命を落とすものが増えた。
許由や務光の故事に倣って請われもしないのに世間を避けた男を賢人だと考え、諸侯は彼を慰問した。
バカバカしいことではないか。

【外物篇 十三】言葉というもの
魚を捕える罠は、魚を捕えたら忘れてしまってよい。
兎を捕える罠は、兎を捕えたら忘れてしまってよい。
同じように、言葉は「それ」を捉えるものである。「それ」を捉えることができれば、言葉は忘れてしまってよい。

【寓言篇 三】曾参への批判
曾参は仕官して多くの俸禄がもらえるようになったが、もう親が亡くなり孝行できないことを悲しんだ。
俸禄が多くても喜ばないことを「外物に惑わされない境地」と考える弟子に、孔子は「本当に外物に惑わされない人物は悲しむこともないし、俸禄が多かろうが少なかろうが構おうとしない」と批判した。

【寓言篇 四】顔成子游の言葉
いったいどこに目指していくところがあるのか。
いったいどこにいかないように避けるところがあるのか。
人間にはどこに「自然なあり方」というものがあるのか。
主宰者の命令というものがあるとも言えるしあるとは言えないとも言える。
鬼神がいるとも言えるしいないとも言える。

【譲王篇 六】列子、宰相の贈り物を断る
列子は貧乏のどん底にあったが、その人となりを聞いた宰相が列子に食べ物を贈った。
しかし列子は贈り物を断った。
妻がその仕打ちを問い詰めると、列子はこのように答えた。
「彼は自分で判断したのではなく、世間の噂で判断したのだ。私を罪に落とすときも、自分で判断せず、世間の噂で判断するだろう」

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最後に、天下篇は古代中国の様々な思想を評価した篇で、荘子のことを「まだ十分に極め尽くしていない」と評価している。
他の思想への評価を読むと、天下編の著者はどうやら「外には他者に寛大、内には自身の充足」という観点で評価しているようだ。
ここで充足というのは、生きることに満ち足りている、ということだ。
そういう意味で、実は老子の評価が最も高い。
そして荘子の足りないところとしては「外からの患いを避けることができない」と指摘している。
しかし、荘子の思想では、患いと患いでないものとの間に区別はないのではないか。
外からそれがくるのであれば、それを避けずに受けるのが荘子の思想のあり方で、それを「極め尽くしていない」と評価するのは的を外しているように思う。
私の荘子への身贔屓かもしれない。