本とパズルのブログ

人生は一冊の本である。人生は一つのパズルである。

森鴎外全集3

森鴎外全集3』(森鴎外)<ちくま文庫> 読了です。

最近ますます読むのが遅くなり、読むのに一か月近くかかりました。
それでも、一文一文を噛み締めて読むよろこび、作者がどう思ってこの一文を書いたのかを自分なりに辿るよろこびが分かってきたような感じがして、ますます読書を楽しく思えるようになりました。

因習の蒙昧に悩む穂積家と科学的に簡潔に対峙してしまう己とのズレを描いた「蛇」、父の診療所を手伝う医学生の体験を描いた「カズイスチカ」など、興味深い作品は多いですが、特に印象深いのは「妄想」です。

海辺に老後を過ごす「主人」の、己の人生を振り返った作品です。
留学から帰国した自分が如何にあるべきかを煩悶し、様々な学問を辿った末に至った境地が次のように描かれています。
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自分は辻に立っていて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あったのである。
帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行こうとは思わなかった。多くの師には逢ったが、一人の主には逢わなかったのである。
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もちろん、これを書いた当時の森鴎外の心境を描いたものでしょう。
これを読んで、私は自身の立っている場所を振り返り、大いに反省を促され、かつ励まされたような気持がしました。

さらに「主人」の暮らしをこのように描いています。
まさに、読書人の理想ではないでしょうか。
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昔別荘の真似事に立てた、膝を容れるばかりの小家には、仏者の百一物のようになんの道具もただ一つしか無い。
それに主人の翁は壁という壁を皆棚にして、棚という棚を皆書物にしている。
<中略>
世間の人が懐かしくなった故人を訪うように、古い本を読む。世間の人が市に出て、新しい人を見るように新しい本を読む。
倦めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の波瀾を見る。
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完成すれば大傑作になったであろう「灰燼」は未完成に終わりました。
父と息子の微妙な心のバランスを描くかと思われた五条秀麿シリーズは哲学談義に紛れていきました。

そんな、私からみるとちょっと残念に思われる作品も多いですが、「羽鳥千尋」のような今後大きく発展していくであろうことが楽しみな人物描写の作品にも取り組んでいて、次巻以降、ワクワクしながら読んでみたいと思っています。

 

【収録作品】

カズイスチカ
妄想
藤鞆絵
流行
心中
百物語
灰燼
不思議な鏡
かのように
鼠坂
吃逆
藤棚
羽鳥千尋
田楽豆腐

『よろこびの歌』(宮下奈都) <実業之日本社文庫> 読了です。

久しぶりに胸を高ぶらせながら読める作品に出会いました。
読み終わって、ちょっと興奮しています。

一時間ほどかけてこの感想を書いていますが、この作品の内容を思い出しながら、指と胸が震えています。

最近読んだ現代作家の中では、堀江敏幸柴崎友香が特別に良かったですが、ここに宮下奈都も加えることになりそうです。

宮下奈都は『羊と鋼の森』の評判を聞いて「匂い」がしていました。
この作品を読んで、私の鼻もなかなか利いてるな、と思いました。 :-)

★ 以下、ネタバラシを含むので、気になる方は読まないでください。


正直なところ、第三章まではごくありふれた退屈な作品だと思っていました。
「どうせ私なんか」と思っている女子高生。
ちょっとした出来事を契機に、そんな中で気づきとよろこびを見つけ出していく。
まあ、そんな作品かな、と読みながら思っていました。

しかし、第四章になって急にスイッチが切り替わります。
霊と話ができる牧野史香が主人公となり、いままで表現されていた「等身大の女子高生の日常」から、全く異なる世界が姿を現わします。
そして、牧野史香が「光の道を歩く少女」を幻視したことから、それ以降、御木元玲に対して急に神格化されたような表現がなされていきます。
第五章では光り輝く彼女を絵に描こうとするところで終わりますし、第六章では彼女から名前を呼ばれたことで喜びに打たれています。

人間御木元玲から神格化された御木元玲への昇華が見事に描かれており、彼女を中心とした場にいる「よろこび」が読み手にもヒシヒシと伝わってきました。

そして、最終章は再び御木元玲の視点に戻ります。
前章までに神格化された御木元玲の、一人の女子高生としての独白。
彼女から見た「みんな」と「場」はどのような存在なのか。
そこから彼女はどのように変化していったのか。
人間として描かれている御木元玲が、彼女の心の中とその変化を自ら表わすことで、かえって「みんな」からの神格化が決して的外れでも大げさでもなく、神格化にふさわしい存在であることを示しています。
そして、第二章、第三章で御木元玲を人間として対応していた原千夏、中溝早紀も、御木元玲のために歌をささげることを表明します。
最後は、全員が御木元玲を見つめ、御木元玲の右手が挙げられることを、息をひそめ、目を輝かせて待っているところで終わります。

ここまで見事な表現をされて、読み手の心が震えないことがありますでしょうか。
こんなに響いてきた作品は本当に久しぶりですし、読んでよかったと本当に思いました。


ここからは少し技術的なところです。

一つの出来事をいろんな視点から描く手法は確かにありますが、この作品ではその出来事への重みが登場人物それぞれで異なっています。
「出来事」は「その日」に至るための単なる通過点であり、絶対的な出来事というような陳腐な描かれ方がなされていないことに好感が持てました。

また、描かれている日付が章毎に少しずつ進んでいきます。
個々人が考えていること、感じていること、見えていることを通して、「その日」に向かっていく様子がとてもリアルで面白く感じました。

そして、御木元玲で始まり、御木元玲で終わったこと。
読みながら、「御木元玲は第一章で良かったんだろうか。最終章で『実は彼女は』のようなネタバラシ的な構成にしても良かったんじゃないだろうか」と思っていたのですが、最初と最後に同じ人物を持ってくる、という発想は私にはありませんでした。
見事だと思います。

あと、いくつか謎が残されていることも楽しいです。

読み進めていくにつれ、頻繁に登場する人のニックネームはやがてフルネームと対応していきますが、なぜか「あやちゃん」だけはずっとフルネームが登場しません。
登場しないのは第三章だけにも関わらず。
そして何よりも、御木元玲と中学からの同級生にも関わらず。

「ボーズ」はほぼすべての章に登場しますが、なぜか第四章と第六章だけは登場しません。

各章は御木元玲にとって重要な人物の視点で描かれていますが、第五章の里中佳子だけはそれほど重要人物ではありません。
それにも関わらず、この章にはこの作品の肝ともいうべき重要な表現がいくつもあります。


★ 最後、「解説」へのネガティブな意見になります。気になる方は読まないでください。


しかし、解説の薄っぺらさはどうでしょうか。

自分と折り合いをつけていく様子が描かれている。うん、確かに描かれていますが、読み取れるのはそれだけなんですか?

ほほえましいかわいらしさ、愛らしさ。うん? 御木元玲への表現が、そんな言葉だけで済まされるんですか?

合唱というアイテムを与えられただけで先へ進んでいける少女たち。え? 合唱は単なる手段であって、彼女たちは御木元玲の存在に感化されたのでは? そもそも、最初は合唱で失敗してましたよね?

少女期特有の屈託とそこからの解放を形にしたと思いました。はあ、読み取れたのはそれだけですか。

さらに言えば、最初に書かれている洗濯籠の喩えについて、「彼女のプライドが見えている」と言っていますが、違うでしょ。
彼女はあの体験で、変わったんでしょ。
うーん、どう読めばそんな風に読み取れるのか……。

読んではいけない解説、というものはこれまでもいくつかありましたが、この解説もそんな解説の一つでした。

デミアン』(ヘッセ/高橋健二訳) <新潮文庫> 読了です。

確か最初は高校生のとき、家にあった世界文学全集のようなもので読んだのだと思います。
とても感激し、その後大学に入っても(今度はこの文庫で)読み、変わらない感激を覚えました。

それからずいぶん経ち、「もう一度読んでみよう」と古い文庫を発掘して読んでみました。

やはりそのころとは読書への態度が変わっているためか、今度は残念ながら感激することはありませんでした。
もっと日常生活の中での出来事だったような記憶だったのですが……。

解説にもあるように、ヘッセ自身が非常に困難な時期に書かれたもので、精神分析家との交流もあり、このような作品ができたようです。
小説というよりは、ヘッセが自己を追求した記録として、資料的観点から読むと面白いかもしれません。

特に、ユング心理学との親和性がいいように思います。
この辺りが好きな方にはおすすめです。

今回は面白く読めなかったとはいえ、ここに書かれているこんな手法は試してみたいです。

◆ 絵を描いてみる。
◆ 目的を定めず、街をうろついてみる。
◆ 夢を気にしてみる。

また、こんな教訓もあるように思いました。

◆ 今いる場所がゴールと思うな。
◆ 今いる場所が袋小路だと思うな。
◆ 眼の前にいる人がいつまでも先生だと思うな。

あまり面白くなくても、こういう得るものがあるのがヘッセのすごいところです。

デミアン (新潮文庫)
ヘッセ
新潮社

日蝕・一月物語

日蝕・一月物語』(平野啓一郎)<新潮文庫> 読了です。

日蝕」は芥川賞受賞後すぐに読んだことがあります。
概ねストーリーや文体は覚えていましたが、やはり年月が経つと、興味ある部分も変化していました。
当時は一風変わった文体やストーリーを面白く読んでいたと記憶していますが、今読むと、「何をどのように表現しようとしたか」にとても興味がありました。
そして、それは大変成功しているように感じました。

「一月物語」は初めて読みました。
こちらも舞台こそ違え、「日蝕」と同じ作風の作品で、とても好ましく面白く読むことができました。

まだまだ若い時分の作品のため、確かに弱いような印象も受けます。
それでも、確固たる彼の個性が感じられる作品だったと思います。

平野啓一郎は少し前に『決壊』も読みました。
こちらはストーリーは面白かったのですが、非常に荒い印象も受けました。
日蝕・一月物語』の作風を進めていった方が良かったんじゃないかな。

解説も、平野啓一郎の作風の変化を大きく取り上げています。
「いろんなタイプの作品に挑戦していることこそ本質だ」といったような論調だったと思いますが、私はやはり「何をどのように表現するか」に興味があります。
そういう意味では、今の作風は成功しているのか、疑問に思わざるを得ません。

日蝕・一月物語 (新潮文庫)
平野 啓一郎
新潮社

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹) <文春文庫> 読了です。

少年カフカ』『アフターダーク』『1Q84』と少し実験的な作品が続いていましたが、久しぶりに「失われる物語」が語られたように思います。

しかし今までの「失われる物語」と異なるところは、失われたがために何かを得ることができた、ということ。

ねじまき鳥クロニクル』では失われたものが再び手に入りそうな気配を見せていましたが、そうではなく、「失われたがために何かを得ることができた」という方向に村上春樹が答えを見い出せた、というところに非常に価値のある作品だと思います。

海辺のカフカ』を読んで『海辺のカフカ』が一番好きな村上作品になったものの、この作品を読んで、改めて『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が一番好きな作品になったような気がします。

江戸川乱歩全集第3巻 陰獣

江戸川乱歩全集第3巻 陰獣』(江戸川乱歩) <光文社文庫> 読了です。

3巻にきて、ようやく江戸川乱歩が書きたかったものを書けているのかな、という印象を受けました。

「陰獣」や「芋虫」といったよく知られた乱歩作品のみならず、「踊る一寸法師」「人でなしの恋」「鏡地獄」といった傑作も収録されています。

解説の新保博久は「ただけない」とのことでしたが、私は「覆面の舞踏者」もおもしろく読めました。

そしてなによりも、「木馬は廻る」という作品を江戸川乱歩が書いていたことに驚きました。
およそ乱歩作品らしからぬ人生の悲哀を描いた作品で、私はこういうのは大好きです。

もし最初に江戸川乱歩をおすすめするなら、この「第3巻」をおすすめしたいです。
ただし、「空中紳士」を除いてですが……。

【収録作品】

踊る一寸法師
毒草
覆面の舞踏者
灰神楽
火星の運河
五階の窓
モノグラム
お勢登場
人でなしの恋
鏡地獄
木馬は廻る
空中紳士
陰獣
芋虫

森鴎外全集2

森鴎外全集2』(森鴎外) <ちくま文庫> 読了です。

小品ですが、「電車の窓」「里芋の芽と不動の目」「桟橋」「花子」「あそび」「身上話」のような作品が私には好みです。

文壇を攻撃する「杯」「ル・パルナス・アンビュラン」等の作品は、ちょっとあからさま過ぎて、なかなかうけがうことが難しいように感じました。こういうのを読むと、森鴎外は頑固で激しい人だったんだな、と思ってしまいます。

長編「青年」が収録されています。
これはなかなかの傑作で、とても面白く読むことができました。
森鴎外といえば「舞姫」だとか「山椒大夫」だとか「高瀬舟」だとかがすぐ出てきますが、「青年」も代表作と言っていいのではないでしょうか。

解説では「必ずしも評判がよいとはいえない作品」と書かれていますが、私には、「もし森鴎外が「青年」しか残さなかったとしても、文学史上に名を遺すことになったのではないだろうか」とすら思えました。
もし森鴎外の諸作品が好きなでもまだこれを読まれていない方がおられたら、ぜひ一読をおすすめしたいです。

【収録作品】
独身
牛鍋
電車の窓

木精
里芋の芽と不動の目
桟橋
普請中
ル・パルナス・アンビュラン
花子
あそび
沈黙の塔
身上話
食堂
青年